──今にも空が落ちてきそうだった。
大気に溶け込んだ妖雲は、目には見えずとも──
不可視のまま辺り一帯を縫うように包み、閉ざしていた。
「なん、だと……」
その妖雲の発生源である面妖は、番人として無双を称えられた男をすら唸らせる。
この街の“王城”の守護を任ぜられたのは、確かにその姓より受けた任でもあったが、その姓の中で抜きん出た“雄”として認められたのは、紛れもない実力に裏付けられたものであったというのに。
「おい、こいつ……」
──番(つがい)の反応も同じく。
すでに無数の軌跡をなぞり上げた自慢の双刀も、もはや見る影もなかった。
「ほほほ……姫が女子だからと手を緩めるか? 存外、君子どもよな」
奸智を誇りとする冷笑が似合うは、やはりあやかしより他になく。
「馬鹿言え。てめぇのどこが女だって?」
それでも呑まれなかった美丈夫の胆力は流石という他なかったが、頬を流れる冷や汗までは止められない。
隠し切れない。
だからあやかしは、あえて嗤うのだ。
「蒐集家よ」
と。隻眼の剣士を睨(ね)めつける。
「一つきりなれど、良き眼よ。良き選定よ。姫は長らく刀剣の産地におったが、御主の腰の持ち物は、そこでもなかなかお目にかかれぬ一品揃い」
すでに鉄塊としか呼べぬ刀を、舐め上げるように妖しく見つめる目が細まる。
「だが姫は討てぬ。技量も霊具も意味をなさぬ──姫を討てるは、かの咒いを吠えし一刀(きみ)のみ」
「なるほどな。あんた……特定の条件下に縛られてるのか」
「それがあやかしというものよ」
“彼女は討てない”。
皮肉な事に、それは彼女が今まさに護ろうとしている者たちが過去に証明している。
「残念じゃ、炎者どもよ。こんな姫の為に泣いてくれた者がおる。こんな魍魎の為に、いつ終わるとも知れぬ浄化の旅に付き合うてくれた者がおる。ああ、残念じゃ残念じゃ……それすら知らなんだら、そなたらの所業如き見逃そうとも構わなんだのに」
昔の自分であればそうしていただろう。
虐げられ、裏切られ、あの冷たい雨に打たれて一度は死んだ。
ただ無垢に信じて信じ続けた果てに待っていたのは、喉をかきむしるような飢餓と絶望。
──通りがかったあの気紛れな術師が、やはり気紛れに自分をこの世へと呼び起こした時。
彼女は、世界のすべてを恨んでいた。
「あの優しき愚か者たちが僅かでも哀しむと思うと、看過もようせんわ」
だから、やはり──今にも空が落ちてきそうだった。
入れ物(からだ)を与えられ、術師となり、腐った大地を舐めるような堕落の果てに、あやかしと成り果てた。
その自分が、こんなにも胸が苦しいまでに、護りたい誰かがいるなどと。
立ち上る妖雲が彼女の“場”を形成する。
過去、この結界を突破したのは、北の偉大なる女神ただ一柱。
炎に縛られた異能者ごときに何ができようか。
彼らはもはや逃れられない。
外界からは近付けぬ嵐が一陣、ただ巻き起こっているように見えるのみ。
今、見上げる空は──彼女の支配下にあった。
けれど、彼女は気付いていなかった。
「あやかしと言ったな?」
黙していた長柄の偉丈夫が、冷笑に不敵な笑みを返した。
「生憎、私にはそうは見えぬ。私には、この街に染み込んだ汚水どもと同じにしか見えぬのだ」
「ほう?」
「御主はあやかしではない。ただの魔術師だ」
そう、彼女は気付いていなかったのだ。
浄化の旅は、数百、数千年──どれほどの時がかかるか知れぬとされていたはずではなかったか。
ならば何故、彼女は今ここにいる?
彼女はすでに、あやかしではなくなりかけていたのだ。
旅の共になってくれた娘のお陰か?
彼女の為に涙を流した女神のお陰か?
彼女を討つ為だけに在った一口(ひとふり)の刀のもたらした傷のお陰か?
あの日、あの時、あの場にいてくれたすべての者たちのお陰か?
それとも──心などとうに暗い昏い腐敗の闇の底に捨ててきたと、彼女が思い込んでいただけだったのか?
「そういう事かよ」
双刀を失っていた美丈夫は、己が右眸を覆い隠す眼帯に手をかけた。
「なら、幾らでもやりようはあるってもんよ。数百年の因縁ってやつでね。こう見えても俺ら、魔術師退治の専門家だからな」
「御主、その瞳……」
「誰が見えねえって言ったよ──?」
.....To Be Continued
という嘘。
とまあ、今年も前日に慌てて書いたわけなんですけどね。
成長ないですね、自分。ホントに。
ただ折角なんで、書く機会のないまま封印された設定を使ってみました。
今年も方々にごめんなさい。